原子力平和利用巡り活発な討論(2009年8月、電気新聞)

“未来志向”敦賀から発信

第61回日米学生会議が開催
高速増殖炉(FBR)原型炉「もんじゅ」見学

第61回日米学生会議(主催=国際教育振興会)が2009年7月28日から8月21日まで日本で開催され、8月17日には福井県敦賀市の日本原子力研究開発機構の高速増殖炉(FBR)原型炉「もんじゅ」を見学した後、PR施設エムシースクエアで原子力平和利用を中心に専門家を交えながら討論した。「未来に向かう議論にしたかった」(事務局の京都大学3年・小野さん)というように、核不拡散や安全を確保した原子力エネルギーの利用、日米協力などについて前向きな発言が見られた。

日米学生会議の歴史
1973年以降は毎年開催

日米学生会議は1934年、満州事変を契機に悪化していた米国の対日感情を改善し、相互に信頼関係を深める狙いで日本の学生有志によって創設された。太平洋戦争や資金難による中断もあったが1973年以降は毎年開催。過去には宮澤喜一元首相(1939年、1940年)やキッシンジャー元国務長官(1951年)ら世界政治に影響を与えた人物も参加している。

「日常から世界、日米から地球」
特徴

企画・運営すべてを学生自ら行うのが会議の特徴。今回は日米双方36人ずつ参加した。「日常から世界、日米から地球へ~国際社会を見据えた対話と発信~」をメーンテーマに東京、函館、長野、京都を巡りながら議論、交流を深めた。

議論の内容
原子力について議論

議論の内容は、地球市民教育、先進国と途上国の関係、新興国の台頭と日米、世界の食料安全保障、現代社会と健康、環境と持続可能な発展、公共の利益と個人の権利など、多岐にわたる。その中で、現代文明を支える半面、安全や兵器利用が常に問題視される原子力について現実的な視点から議論するため、関連施設が立地する敦賀を訪れた。

敦賀の討論会
関西電力、原子力機構との共催

関西電力、原子力機構との共催で行われた敦賀の討論会は、まず竹田敏一・福井大学付属国際原子力工学研究所所長が「人類にとって原子力エネルギーはなぜ不可欠なのか」、久野祐輔・原子力機構核不拡散科学技術センター次長が「原子力エネルギーの平和利用と核拡散防止」と題して講演。竹田所長は、世界のエネルギー情勢や地球温暖化問題に触れ、原子力発電の必要性、第4世代システムを目指す技術開発について説明。人類の持続可能な発展には原子力を持続的に利用することが重要であり、「ぶれない政策、技術進歩、人材育成、国際協調が必要」と強調した。

日米の学生代表
日本の核武装の可能性

その後、日米の学生代表が発表。慶応大4年の林さんは、核拡散防止条約(NPT)と国際原子力エネルギーパートナーシップ(GNEP)をテーマに発表。日本の核武装の可能性について、「国民には核アレルギーがあり、国際的に核兵器廃絶を訴え続けてきた。また、核武装すれば経済制裁は避けられず、市民生活にも深刻な影響が出てくる」と、現状では考えづらいと説明した。

原子力技術の平和利用
核不拡散の国際体制

ルイビル大3年のエミリー・ラスさんは、エネルギー供給、医療、経済・雇用などの面で原子力利用によって得られる利益を挙げながら、“エミリーの原子力プラン”を提案。「過去の過ちを繰り返さない」「環境に配慮する」「世界中の意見を聞く」「最悪を想定しながら最善を望む」「原子力が持つものすごいエネルギーの価値を認める」といった考えを示した。続いて講演者や発表者が、核不拡散の国際体制、原子力技術の平和利用などについて活発に意見交換した。

もんじゅの膨大な投資額
未来につながる投資

討論会を終え、事務局を務める小野さんは「正確な知識、責任を持って考えることが大切。原子力を現実的なものに感じた」と述べた。発表した林さんは「米側は日本が再処理に取り組んでいることを知らなかったのではないか」との感触のほか、もんじゅの膨大な投資額に驚きつつ、「未来につながる投資と感じた」と話していた。

地方からの国際化で「地球市民シンポ北九州」(1993年8月、西日本新聞)

第45回日米学生会議

九州では初めて開催

第45回日米学生会議「地球市民シンポジウム」が1993年8月7日、福岡県北九州市小倉北区の北九州国際会議場であり、日米の学生80人をはじめ、市民約400人が参加した。九州で開かれるのは初めて。

鶴見和子上智大名誉教授
地方の国際化の在り方

シンポでは「グローバル時代を先駆ける地方からの国際化」をテーマに、地方の国際化の在り方、地域住民一人ひとりの意識の持ち方などについて意見を交換した。まず、鶴見和子上智大名誉教授が「内発的発展論から見た地域の重要性」と題して基調講演。

末吉興一市長
駒井洋筑波大教授

続いて四方洋IBC専務、末吉興一市長、駒井洋筑波大教授ら5人をパネリストに討論が行われ「日本の企業などはもっと外国人に対して門戸を開くべきだ」「これからの国際交流はファッション型や親善型ではだめ」「アメリカだけでなく日本にも少数民族などの問題が存在する。タブー視している限り、日本での真の国際化は実現しない」などの意見が出た。

日米の相互理解を目的

日米学生会議は日米の相互理解を目的に昭和9年に創設。日米から選抜された学生各40人が毎年、両国に集まり意見交換を行っている。1993年のテーマは「地球共同体への展望と実践-私たちのめざす調和、そして共生」。7月29日から約1カ月間、東京を皮切りに北九州、兵庫の三カ所で教育、経済、メディアなどさまざまな分野で会議を開催。会議の結果は共同声明として、両国の首脳に提出する予定という。

戦争を知らない子供たち~日米学生会議の32人、硫黄島を訪問(1995年8月、産経新聞)

太平洋戦争の激戦地・硫黄島(東京都小笠原村)

終戦50周年の夏、「玉砕の島」を初めて視察

日米双方で約45,000人が死傷した太平洋戦争の激戦地・硫黄島(東京都小笠原村)を訪れた日米学生会議のメンバー32人は、初めて見る塹壕(ざんごう)に驚き、慰霊碑の前で国籍を超えて手を握り合った。大戦前、「太平洋の架け橋」となるべくスタートした日米学生会議は終戦50周年の夏、「玉砕の島」を初めて視察し、互いの違いを認め合った上で新たな関係構築を誓った。OBとして同行した宮沢喜一元首相は「新たな和解の象徴」と孫のような世代の姿に目を細めた。

自衛隊入間基地から2時間半
硫黄島上空

埼玉県の自衛隊入間基地から2時間半余。C130輸送機の窓から見た1995年8月18日の硫黄島上空は抜けるような青空が広がり、海とかん木は原色に輝いていた。

米国女子学生の印象

「事前に勉強していなかったら、バカンスに来たと錯覚しそう」。米国女子学生の印象はそのまま日米の若者の共通した思いだったろう。

かつての激戦の形跡
海上自衛官から説明

島には、一見してかつての激戦を物語る形跡はないが、「土1枚はがせば未発見の遺骨11,000柱が眠り米軍の一斉砲撃に山容は変わった」と海上自衛官から説明を受けると、32人の顔付きは変わった。

日本戦没将兵の天山慰霊碑
数珠を手に

空港北にある日本戦没将兵の天山慰霊碑。交代で献花などを行う学生たちの中で、ひときわ悲壮な表情で合掌した米国人学生、ケビン・サリさん=カンザス大学=の手には、数珠と仏陀(ぶっだ)の教えを説いた英訳本があった。「私は仏教徒で数珠は数年前にいただいた。これほど多くの人が、なぜ殺し合ったのか」

慰霊碑を前に

慰霊碑を前に、「憎しみを打ち負かすのは愛だけである」という仏陀の一節を思いだしたという。

米軍将兵の碑
献花と黙とう

天山慰霊碑に比べ、小ぢんまりとした「米軍将兵の碑」では日米の男女学生3人が手を握り合い、献花と黙とう。米国女子学生の肩が震えた。

人材輩出の日米学生会議
OBには宮沢元首相

日米学生会議は昭和9年に産声をあげた。満州事変後、日米関係が険悪化をたどる中、「学生も太平洋の平和実現に一翼を担おう」との理念で、大戦と戦後の一時期の中断を挟み1995年で47回。OBには宮沢元首相をはじめ、人材が輩出している。

城山三郎『友情力あり』
山室勇臣・元三菱銀行副頭取

宮沢元首相と6回(昭和14年)、7回(昭和15年)を経験した苫米地(とまべち)俊博・元三菱商事副社長、山室勇臣・元三菱銀行副頭取は、大戦前夜、軍部の圧力に抗しながら開催に奔走。その姿は、会議が縁で宮沢夫人となった庸子さんと元首相の「洋上のロマンス」とともに、城山三郎さんの著書『友情力あり』に活写されている。

摩天楼が林立

当時の米国は《すでに摩天楼が林立し、底抜けに明るい巨大な文明社会。こんな社会が地球上に存在するのかと、呆然と立ち尽くした》(著書から)

戦後50年
日本の学生が大量購入

その国との戦い敗れて50年。この年、日本の学生は城山さんの本を大量購入し必読書にした。

慰霊
神話化された人物

購読した学生たちが「神話化された人物」という宮沢元首相だが、同行中は黙って見つめているだけ。企画・立案・運営のすべてを学生が行う伝統を守ったからで、慰霊後行われた討論でも同じだった。

日米学生の認識の落差
二度と見たくない

「帰国後に今日見たことを伝えたい。二度と見たくない、と」(米国女子)

蒸しぶろのような病院壕

「蒸しぶろのような病院壕に1カ月も人がいたことが信じられなかった」(日本女子)

自衛隊硫黄島施設
両国の文化土壌の違い

自衛隊硫黄島施設の一角で、両国学生は英語で意見を交換した。日米安保の行方にも言及したが、焦点は両国の文化土壌の違いとその認識の仕方だった。

戦争のとらえ方

「戦争のとらえ方にしても戦後、悪と見なした日本と勝ち取るべき手段として受け入れた米国ではまるで違う。この認識の差を理解することから始めるべきでは」(日本女子)

硫黄島宣言
柔軟な精神と相互理解の決意

実は、この1カ月間、学生たちは「日米の認識の落差」を思い知らされた。会議の進め方でも、事前準備と積み上げ式の日本側に対し、目的のとらえ方によって、積み上げた手段や方法を簡単に壊してしまう米国側。激論の中から生まれた成果は「柔軟な精神と相互理解の決意」をうたう「硫黄島宣言」となった。

塹壕の中の日本兵
プロパガンダの恐ろしさ

米側代表のジョン・ハーディングさん=ペンシルベニア大学=は、硫黄島の悲劇を例に「塹壕の中の日本兵は外の米兵を鬼か怪物と思っていたと思う。プロパガンダで人間と人間の関係になっていなかったことが悲しい」と述べた。

促されて口を開いた宮沢元首相は自らの体験をもとに、こう結んだ。

和解の象徴

「平和を希求した会議も戦時下は親善も友好もあったもんじゃなかった。せい惨な戦いの象徴が硫黄島でしたが、戦後50年を経て同じ硫黄島が相互理解の場となった。戦後の日米関係の『和解の象徴』の表れだと思います」