若者の目で徹底討論 相互理解の潤滑油に(1991年1月、毎日新聞夕刊)

日米関係

今年の夏、日本で開かれる「第43回日米学生会議」の運営にあたる日米学生会議実行委員会の日本側委員に米人学生が、米国側委員に日本国籍の米国大学生が一人ずつ加わっている。日本に留学中のミッシェル・マギーさん(23)とエール大生、ヨシオ・ホール君(21)で、こうした相互交流は同会議始まって以来のことだ。二人にインタビューする機会を得た。1991年の「キャンパる」は“日米関係”でスタートする。

実行委員会OB
東京・四谷のビル

日米学生会議の開催準備を進めている実行委員会の事務所は東京・四谷のビルの狭間、小さな建物の2階にある。7、8人も座れば、もう窮屈だ。掲示板にニックネーム入りメールボックスが並ぶ。実行委員やOBが、冗談を飛ばしあいながら、それぞれの作業に取り組んでいる。

ミッシェル・マギーさん
新聞社のアルバイト、英語教師

11人の日本側委員の1人であるミッシェルさんもその中にいる。米国の大学で日本の政治を専攻、日本に住みたいと希望し、1990年10月に来日、新聞社のアルバイト、英語教師をしている。1991年1月からは日本語学校にも通う。

親類を訪ねて1990年暮れに来日

ヨシオ君は米国育ちの日本人。両親とも日本人だが、ヨシオ君が幼児のころから米国で暮らしている。親類を訪ねて1990年暮れに来日、この事務所に立ち寄った。

立候補して今年の実行委員に

2人とも、1990年の会議に参加「若者として感じているものは、日米の学生とも同じだ」と感じ、立候補して今年の実行委員になった。

日米関係を考えるきっかけが「政治、経済での関係悪化」というのも二人に共通している。米国白人社会で育っていても、見かけは日本人のヨシオ君は「日常会話の端々に人種差別を感じた」と語ってくれた。

貿易摩擦

ミッシェルさんは、貿易摩擦などから日本人の評判が落ちる一因として「マス・メディアからの限られた情報によるところが多い」という。「実際に日本人に接し、何が起こっているのかを理解することが、緊張を緩和させる手がかりになるでしょう」ともいう。

日本語の微妙なニュアンス

日本側実行委の会議では、ミッシェルさんに分かりやすいように英語を使う。ヨシオ君も日本語を習っていて、1990年とは見違えるほど日本語が上達している。でも、込み入った内容になると、微妙なニュアンスを伝えるのが難しい。言葉の障壁は厚い。

言葉の障壁

だが、ヨシオ君は「“いつもまじめな日本人”という(私の)ステレオタイプのイメージも変わりました。ね、YUZO」と隣にいた委員長の大塚雄三君(東京大学)をつつく。ミッシェルさんは「言葉の障壁のデメリットより、私たちが日米間の潤滑油となるメリットの方が大きい。また、そうしたい」という。

かくし芸大会

今年の日米学生会議のメーンテーマは「日米関係」。1991年7月23日から1991年8月19日までの28日間、東京、新潟、北海道を移動しながら行う。堅苦しい討議ばかりでなく、両国の学生が恋愛観まで話したり、かくし芸大会をしたり、交流をする。

日米学生会議とは

国際教育振興会

財団法人・国際教育振興会が主催。外務省、文部省などが後援。

平和を模索して青山学院大に集まる

会議が初めて開かれた1934(昭和9)年は、満州事変が起き、両国は緊張した関係にあった。両国の学生は平和を模索して青山学院大に集まった。1940年まで会場を日米交互に7回開催。太平洋戦争で中断し、戦後の1947年に復活、1954年の15回まで毎年行われたあと、再び中断。1964年に国際教育振興会の事業の一つとして再開され、以後毎年日米交互に開かれている。

1991年は、実行委員を含め日米各40人で開催。日本側参加者は希望者のなかから実行委員会が選考する。参加希望者は、72円切手を張った返信用封筒を同封して、〒160 新宿区四谷1の21

財団法人・国際教育振興会内 日米学生会議事務局へ。問い合わせは03・3359・0563。

討論で生まれた信頼--日米学生会議報告(1991年9月、毎日新聞夕刊)

実地研修、ホームステイ

日本の学生と外国の学生が寝食をともにし、互いの国との交流や、いま抱えている問題を率直に話し合う学生会議が、1991年もいくつか開かれた。そのうちの日米学生会議と日中学生会議の日本側実行委員たちが、それぞれ1991年の会議で印象に残ったことを「キャンパる」に寄稿してくれた。日米は1991年が第43回、日中は第5回で毎年行われている。

安全保障、民族問題フォーラム

日米学生会議は1991年7月23日から1991年8月18日まで、東京、新潟、北海道と会場を移動しながら行われた。日米各40人の学生が10の分科会、安全保障フォーラム、民族問題フォーラム、貿易シンポジウム、各開催地での実地研修、ホームステイなど、もりだくさんの内容だった。

日米各1人ずつペアになって1泊

とくに印象に残ったのはホームステイ。日米各1人ずつペアになって1泊する。日本人が国内でホームステイすることは珍しく、最初はお互いに戸惑っていた。私たちがお世話になったのは、北海道清水町の母と子供2人の家庭だった。10年前に夫を亡くし、専業主婦が突然働かなくてはならなくなった。子育てと仕事の奮戦記など、母は強し!人生をポジティブに生きている人!と、20代の女性として、私たちは大いに啓発された。

通訳係
ホストマザー

話は尽きず、夕食スタートの5時すぎから夜中の12時になったろうか。女性の労働状況から、湾岸戦争、コメ問題まで。私を通訳係にして、ホストマザーはパワフルに語り続けた。

コメについての感情

なかでも、コメについては、戦後の食料難、さらに歴史をさかのぼって、日本人にとってどんなに神聖なものであり、特別な感情があるのかということを、1粒のコメの貴重さを体験してきた世代が訴える説得力は大きかった。また「日本の固有の事情を、米国側は理解しようとしていない」「米国側は自国のルールを押しつけたうえで、日本を理解できない、と批判するのはいい加減にしてほしい」などズバズバ。途中でヒヤッとすることもあったが、かえって、お互いに言いたいことを言った満足感とそれによる信頼感が生まれた。

コミュニケーションギャップ

言葉じゃないんだ。技術としての、手段としての言葉が問題ではない。伝えるものがあるのか、相手に分からせようという「欲望」があるのか、ということなんだ。ともすれば、日米間のコミュニケーションギャップを英語力のなさのせいにしていた自分にガツンとやられた気分だった。このことは、その後の会議でおそるおそるではあったが表面化させたことで、コミュニケーションをより確かなものに近づけられたのではないかと思っている。(国際基督教大・七戸美弥)

自分の考え持つ重み

米国の学生とさまざまに議論して、自分の英語力の乏しさに歯がみし、フラストレーションを感じることが多かった。だが、英語の問題とは別に、自分の考えを持つことの重要性を何度となく実感した。米国の学生がこんなことをいっていた。「日本の学生は会議で扱う諸問題について、よく調べてきている。でも、議論をすると自分の考え、意見をなかなか出そうとしない」。 もちろん、日本の学生みんなではない。だが、私たちは、与えられた問題を解くことに慣れてしまって、なにが問題なのか見抜き、それを解決していこうという訓練が足りなかったかもしれない。(自由学園・野田雄輔)

焦りと喜びの実行委

1992年の日米学生会議は米国で行われる。その日本側実行委員の1人になった私にとって、1991年の会議で一番心に残ったのは、最後の3日間、北海道で行われた新実行委員ミーティングだった。 米国の実行委員とは1992年の本番までもう会えない。次回のテーマ、参加人数、日程など概略を決めてしまわなくてはならない。みんなが思い出づくりをしている間、宿舎に缶詰めになっていた。時間が限られているため、焦り、ときには感情的になってしまうこともあった。英語での話し合いはつらいものがあった。しかし、同時に自分たちで新しいものを作り出していく喜びも味わった。(慶応大・鳥越あすか)