大統領の歴代ランキング(米国学者の投票)

トップ10

順位 名前、在任期間、政党 功績、略歴など
1位 エイブラハム・リンカーン

1861年3月~
1865年4月

<第16代>

共和党

エイブラハム・リンカーン
米国が国家分裂という最大の危機に直面したのは、共和党のリンカーンが1860年選挙で勝利し、第16代大統領に就任した直後に起きた南北戦争(1861年~1865年)である。この戦争の死者は南北双方で合計62万人余に達し、米国史上で最大の犠牲者を出した戦争となった。

リンカーンは奴隷制を既に採用している南部諸州には干渉しないものの、準州への奴隷制の拡大には反対する立場を取り、共和党の候補に選出された。本選では民主党の分裂に助けられ、選挙人180人を獲得して勝利を収め、共和党出身で初の大統領となった。ところが、その直後に南部11州が合衆国から離脱。アメリカ連合国(CONFEDERATE STATES of AMERICA)を結成したことから、1861年4月に戦争が始まった。

リンカーンは、国家の分裂を断固阻止するとの強い態度で臨んだ。北部23州の工業力を背景に、軍事面では海上からの南部封鎖や西部戦線での攻勢で優位に立ち、政治的には奴隷解放宣言(1863年1月)を公布して、欧州諸国による「南部連合」の国家承認を未然に防いだ。

戦争の最中に行われた1864年選挙には、当然のことながら南部11州は参加せず、リンカーンは楽々と再選。しかし、戦争が事実上終結した直後の1865年4月14日、リンカーンはワシントン市内のフォード劇場で南部支持派の俳優ジョン・ブースに銃で後頭部を撃たれ、暗殺された。

「丸太小屋からホワイトハウスへ」を実現したアメリカンドリームの体現者であり、常にユーモアを絶やさず、卓越した指導力を発揮したリンカーンの人気は今も高い。歴代の大統領評価では常に1位の座を占め、偉大な大統領のトップにランクされている。次いで初代大統領のワシントン、21世紀前半のフランクリン・D・ルーズベルトの順となるケースが多い。
2位 ジョージ・ワシントン

1789年4月~
1797年3月

<初代>

無所属

ジョージ・ワシントン
初代大統領。アメリカをイギリスから独立させた立役者。 軍人として対英独立戦争を指揮し、 不利な形勢を逆転させた。

独立戦争の英雄として絶大な支持を得ながら、 独裁者としての道を歩まず、 崇高な振る舞いを続けた。

ばらばらな州の寄せ集めだったアメリカを、一つの国家としてまとめるべく尽力した。 党利党略に走ることなく、分断から統一へと率いたリーダーである。 二期であっさり身を引き、政界を引退した。公職から退いてから2年半後の1799年12月、咽頭感染症と肺炎のために逝去した。67歳だった。

【生い立ち】10代のころから戦場で活躍した。1754年に民兵の中佐として植民地戦争に参加した。そこで数々の武功を上げた。農園主として財をなしていたが、裕福な未亡人と結婚。アメリカ有数の資産家となった。

戦場でも活躍した。植民地人の西部への進出を制限するイギリス政府の政策は、土地投機者としての彼の利害と衝突する。ために、反英抗争運動に加わっていった。

1775年、独立戦争のスタートとともに総司令官に選ばれた。以来7年にわたって指揮をとる。1781年10月、ヨークタウンでイギリス軍を破り、独立戦争を勝利に導いた。

少年時代のエピソードが日本でも有名である。父親からもらった一本の斧(おの)で庭の桜を根元から切り倒してしまった。召使に問いただす父親の声は、怒りで震えていた。 ワシントンは桜の木を切った犯人が自分であることを正直に告白した。日ごろから「うそほど悪いことはない」と言っていた父親は、急に機嫌を直し「正直に白状したから、もう桜の木は惜しくなくなった」と頭をなでてくれた
フランクリン・ルーズベルト

1933年3月~
1945年4月

<第32代>

民主党

フランクリン・ルーズベルト
1921年以降、3期にわたって続いた共和党政権下の1929年10月24日、株式市場が暴落して「暗黒の木曜日」が米国を襲い、世界を巻き込んだ大恐慌に突入した。当時の大統領、ハーバート・フーバーはなすすべなく、1930年春には失業者数が400万人を突破した。1932年選挙で、民主党はニューヨーク州知事だったフランクリン・D・ルーズベルトを候補に指名。米国を大恐慌から救うための「ニューディール政策」を掲げたルーズベルトは、選挙人472人を獲得して圧勝した。フーバーが獲得したのはわずか59人だった。

第32代大統領に就任したルーズベルトは、「ブレーントラスト」と呼ばれた専門家集団を集めて、政策を立案させ、農民には農産物の価格維持のための政府援助を約束。失業者に対しては直ちに救済措置を取るとともに、多くの公共事業計画を実施に移して雇用を創出した。

労働者や農民、知識人、黒人など全米レベルで広範な支持層をつくり上げた「ルーズベルト連合」は、大恐慌から第2次大戦に至るまでの国難を見事に乗り切り、ルーズベルト自身は史上唯一の4選を果たした。ルーズベルト連合は20世紀の米政治の底流となった。民主党が議会で主導権を握る時代は短期の共和党支配時代を挟みつつも、基本的に1994年の中間選挙まで続いた。

米国では、初代大統領のワシントンが3選を辞退したことから、大統領は2期で退任するのが慣例になっていた。しかし、非常時であったこととルーズベルトの卓越した指導力に国民が期待したため、1945年4月12日に死去するまで、実に12年余のルーズベルト時代が続いた。3選禁止が憲法修正第22条で規定されたのは、1951年である。
4位 セオドア・ルーズベルト

1901年9月~
1909年3月

<第26代>

共和党
「反トラスト法」によって、独占資本による支配の改善に取り組んだ。競争的な市場原理に基づくフェアな経済の実現を推進した。資本集中と金権政治家を攻撃し、富の公平な分配を主張した。

これまで自由放任主義だった企業活動を大胆に規制した。市場で売られている薬品の基準をつくる薬事法を制定するなど企業監督を強化した。 労働者保護、所得税や相続税の増税など、ポピユリスト政策を打ち出した。 資本家からは反感を買った。

外政では、「棍棒(こんぼう)外交」と呼ばれる積極的なカリブ海政策を進めた。
5位 トーマス・ジェファーソン

1801年3月~
1809年3月

<第3代>

民主共和党
ジェファーソンの時代には、フランスから広大なルイジアナの地を購入(1803年)し、米国の領土は一気に2倍になった。価格は1500万ドルで、1エーカー(約4000平方メートル)当たりわずか3セントという破格の安さだった。

しかも、ルイジアナといっても現在のルイジアナ州だけではない。ルイジアナ州以外に今のミズーリ、アイオワ、ミネソタ、ノースダコタ、サウスダコタ、オクラホマ、カンザス、ネブラスカ、コロラド、ワイオミング、モンタナ各州など、ミシシッピ川からロッキー山脈に至る広大な土地が対象に含まれていた。これで米国は一気に領土を拡張し、太平洋岸まで進出する基礎を固めた。


建国の父ワシントンが大統領を2期務めた後、引退を表明したため、連邦派(フェデラリスト)は副大統領だったジョン・アダムズを大統領候補に選んだ。アダムズは1796年選挙で第2代大統領に選ばれた。しかし、当時は大統領候補と副大統領候補がコンビを組んでいたわけではなく、単純に票数が最も多かった候補が大統領に選ばれ、2番目の候補が副大統領になった。このため、選挙人獲得数でアダムズの71票に及ばなかったものの、68票で2位に入った共和派(リパブリカン)候補のトーマス・ジェファーソンが副大統領に就任した。

ジェファーソンは独立宣言を起草したことで知られる。バージニア州知事を務めた後、しばらく公使としてフランスに滞在。ワシントン大統領の下で国務長官を務めていた。

アダムズが再選を目指した1800年選挙では、ジェファーソンが73票でアダムズの65票を上回り、トップに立った。ところが、副大統領候補と目されていた同じ共和派のアーロン・バーも73票を獲得して、ジェファーソンと並んだ。バーは強気でジェファーソンに大統領の座を譲らず、下院での初の決選投票に持ち込まれた。

投票は1801年2月11日から2月17日まで計36回も行われ、最終的にはジェファーソンがニューヨークやペンシルベニアなど10州の支持を得て、4州にとどまったバーを破り、第3代大統領に就任した。バーは副大統領になった。こうした混乱を避けるため、1804年の憲法修正第12条で、大統領と副大統領は別々の投票で選ぶ方式が採用された。

現職の副大統領が自分の上司だった大統領に挑んで勝利を収めたのは、ジェファーソンが最初で最後だ。また、米国の首都が1800年4月にフィラデルフィアからワシントンに移転したため、ジェファーソンはワシントンで就任式を行った最初の大統領になった。

1800年選挙は、中央集権主義の連邦派の衰退と州権擁護の共和派の台頭を決定付けた点で、米国史上では重要な政治的転機とされている。ジェファーソンの勝利は「1800年の革命」とも呼ばれる。
6位 ドワイト・アイゼンハワー

1953年1月~
1961年1月

<第34代>

共和党
軍人出身のアイゼンハワーは戦争の無残さを熟知していた。だから、戦争を起こすのは、国家の存続が危機にさらされたときだけだ、と考えていたという。

在任中に「スエズ動乱」が起きた。英仏両国が、エジプトのナセル大統領によるスエズ運河の国有化宣言に対して反発。イスラエルと密約を締結した。 イスラエル軍のエジプト攻撃による「第二次中東戦争」ぼっ発(1956年10月末)に乗じて軍事介入に踏み切っだ。

しかし、アイゼンハワーは英仏に同調しなかった。ソ連のエジプト支援もけん制しながら国連総会で停戦決議を採択させ、英仏両軍を撤退に追い込んだ。

また、アイゼンハワーは、フランクリン・ルーズベルト以来のニューディール政策を踏襲しつつ、財政均衡を実現した。

南部のアーカンソー州リトルロックで黒人生徒の通学が阻まれる事態が起きた際、アイゼンハワーは軍隊を派遣して黒人生徒の登校を守り、白人と黒人の共学が全国で広まる機運を高めた。

1961年初頭の大統領告別演説で、軍拡競争で肥大化する軍事組織と軍需産業の結合(軍産複合体)がもたらす危険性に警告を発した。
7位 ハリー・トルーマン

1945年4月~
1953年1月

<第33代>

民主党
トルーマンは1949年の北大西洋条約機構(NATO)創設など、冷戦を戦う基礎を固めた。

第二次次世界大戦末期の1944年選挙で、民主党のフランクリン・D・ルーズベルトは史上初の4選を果たした。その時、副大統領候補に選んだのが、ミズーリ州選出の上院議員、ハリー・S・トルーマンだった。

外交経験のないトルーマンは副大統領候補になるのを渋ったといわれるが、「戦争の最中に党大会を分裂させる気なのか。そうなったら、彼の責任だ」とルーズベルトが語ったのを耳にして、やむを得ず受諾したという。

ところが、1945年1月20日に就任してから3カ月足らず後の4月12日、ルーズベルトが死去し、トルーマンは第33代大統領に昇格した。

トルーマンの下で米国は第2次大戦に勝利を収め、彼は予想以上の指導力を発揮して、欧州復興のための「マーシャル・プラン」を実施するなど西側の再建に努力した。

しかし、人気は低迷。1948年選挙で共和党は、4年前の選挙でルーズベルトに挑戦したトーマス・デューイ元ニューヨーク州知事を再び候補に立ててきた。加えて、民主党からは2人が党とたもとを分かって立候補。ルーズベルト時代の元副大統領で民主党リベラルのヘンリー・A・ウォレスはニューヨークを中心にトルーマン票を奪い、南部では民主党保守派のストロム・サーモンド(サウスカロライナ州出身)が支持を伸ばした。

誰もがトルーマンの敗北を予想する中で、がけっぷちに追い込まれながらも、大統領本人は意気軒高。列車で5万キロにも及ぶ大遊説を展開し、共和党の狙いは「(ルーズベルトの築いた)ニューディール政策の解体だ」と国民に直接訴えて回った。総計600万人を前に300回以上の演説をこなしたといわれている。

それでも、支持率は上がらず、投票日直前のギャラップ社の調査では、49%対44%でデューイが大きくリードしていた。シカゴ・トリビューン紙は、投票日翌日の朝刊(早刷り)で「デューイ、トルーマンを破る」と大見出しを掲げてしまったほどだ。

しかし、トルーマンの執念が実ったのか、カリフォルニアやオハイオを民主党が奪い、トルーマンの獲得選挙人は303人、デューイは189人、サーモンド39人、ウォレスはゼロで、大逆転の勝利を飾った。
8位 リンドン・ジョンソン

1963年11月~
1969年1月

<第36代>

民主党
ケネディ大統領の暗殺を受けて、急きょ、副大統領から大統領に就任した。

【公民権法の成立】公民権法を成立させた。法案をめぐっては、左派(リベラル派)から大きな不満が出た。左派はあらゆる面において公民権を求めており、とりわけ公営住宅、公共施設、交通機関での差別撤廃を要求した。しかし、ジョンソンはいっぺんに差別を一掃することはとうてい不可能だと理解していた。とりあえず一つでも成立させたうえで、後で改正すればよいと考えていたのだ。まさにプラグマティスト(実用主義者)だった。

議員時代の20年間は、一貫して公民権法案に反対し続けていた。 当時の上院の有力議員はほとんどすべて南部出身者だったことから、 自分の出世のために反対のフリをしていたという説が強い。 大統領になると急に態度を変え、最初に手がけたのが公民権法案だった。

【ベトナム戦争】ベトナム戦争で失敗した。1965年に北爆の開始、海兵隊を含むアメリカ軍兵力の増派など、戦線の拡大を決断した。しかし、1968年のテト攻勢が最大の転機となり、ジョンソン政権の対応へ国内の批判が高まった。北爆の部分的停止と次期大統領選への不出馬を余儀なくされることとなった。

「貧困の撲滅」「偉大な社会(グレート・ソサエティ)」というスローガンを掲げ、社会福祉重視の政策に取り組んだ。

権力を築き上げ、それを利用することにきわめて長けてた。同僚とライバルの弱みを探っては、そこにつけ込んだ。
バラク・オバマ

2009年1月~
2017年1月

<第44代>

民主党
10位 ジョン・F・ケネディ

1961年1月~
1963年11月

<第35代>

民主党
ケネディは第35代大統領としてホワイトハウス入りした。20世紀生まれの初の大統領であり、カトリック教徒としても初めてだった。就任時の年齢は43歳で、史上最年少となった(ただし、副大統領からの昇格も含めるなら、1901年にマッキンリー大統領暗殺で昇格したセオドア・ルーズベルトが当時42歳だった)。

ケネディは、就任から約1000日後の1963年11月22日、テキサス州ダラスを遊説中に狙撃され死亡。ジョンソンが直ちに第36代大統領に昇格した。

■キューバ危機
ケネディ大統領をまず待ち受けていたのは、1962年(昭和三十七年)のキューバ危機だった。 1962年10月14日、米国のすぐ近くにあるキューバの軍事基地にソ連の攻撃用ミサイルが配備されていることを、米国の偵察機が発見した。ケネディは22日、テレビを通じ「私は軍隊に対しあらゆる事態に備えるよう命令した」と述べ、ソ連からのミサイル搬入に海上封鎖などあらゆる手段をとることを言明した。世界中に「核戦争か」という危機感が強まった。

その後ケネディとソ連のフルシチョフ首相との間で「ミサイルを撤去せよ」「キューバに進攻しないことを約束せよ」という緊迫したやりとりがあった。 28日、ようやくソ連がミサイル撤去を表明し、危機は去った。「世界を震撼させた2週間」だった。

ケネディ大統領はベトナム戦争への介入を進めた。フランスから独立したベトナムの南北の内戦に軍事介入することを決定した。これが10年間も続き、最終的にアメリカが敗北するベトナム戦争の始まりとなった。

■選挙
1960年の大統領選挙は、民主党が立候補時の年齢42歳の上院議員ジョン・F・ケネディ、共和党は8年続いたアイゼンハワー政権で副大統領を務め47歳のリチャード・M・ニクソンという若い2人の対決となった。

ケネディは1960年1月2日に出馬を表明すると、3月8日にニューハンプシャー州で行われた最初の予備選で圧勝。強敵だったミネソタ出身の上院議員、ヒューバート・ハンフリーの地元に近いウィスコンシンで勝ち、さらには南部のウェストバージニアで圧勝してハンフリーを脱落させるなど、圧倒的な強さを見せた。

しかし、1960年7月11日に予定されたロサンゼルスでの党大会直前に、保守派の重鎮で上院院内総務の要職にあったリンドン・ジョンソンが突如出馬を表明。党大会での候補指名を決定する各州の投票は見通しが立たなくなった。それでも、ケネディは第1回投票で806票対409票とジョンソンを突き放し、指名を獲得。直ちにジョンソンを副大統領候補に起用することを決めた。

ケネディとジョンソンは、性格的には水と油のような違いがあった。しかし、地域的には北東部マサチューセッツ州出身のケネディに対し、ジョンソンは南部テキサス州出身。年齢も40歳代のケネディに対してジョンソンは52歳とバランスが取れていた。事実、1960年11月8日の本選で、ケネディはテキサスを含む南部7州で勝利を収めている。

ただし、ニクソンは強敵だった。米ソ対立が激しくなっていた時期にあって、1959年にはモスクワに乗り込んで当時のソ連首相フルシチョフとの間で、資本主義と共産主義の優位性をめぐる「台所論争」と呼ばれる大論戦を展開するなど、副大統領として実績を積んでいた。

勝敗を左右したのは、大統領選史上で初めて行われた4回にわたるテレビ討論だった。しかも、1回目で流れが決まった。ケネディは周到に準備を進め、濃紺の背広で臨んだ。グレーの背広だったニクソンよりも、テレビ画面ではその姿がくっきりと浮かび上がった。ニクソンは直前にスタジオに駆け込んできたせいもあり、額に汗が浮かび、表情も暗く映った。

ラジオで討論を聞いていた人々は論戦が互角か、ニクソンの勝ちと感じたという。ところが、テレビを見ていた国民ははつらつとしたケネディに軍配を上げた。

それでも、選挙戦は激烈を極め、ケネディはカリフォルニアをニクソンに奪われたものの、ペンシルベニア、ミズーリ、イリノイなど大州を着実に取って勝利を確実にした。選挙人獲得数はケネディが303人、ニクソンは219人と差が開いたが、一般投票はケネディが3422万7096票、ニクソンは3410万8546票で、その差はわずか12万票弱。まれに見る大接戦だった。

11~20位

順位 名前、在任期間、政党 功績、略歴など
11位 ロナルド・レーガン

1981年1月~
1989年1月

<第40代>

共和党
民主党のジミー・カーター政権の末期は、旧ソ連のアフガニスタン侵攻(1979年12月)やイランでのイスラム革命(1979年2月)、同じくイランでの米大使館占拠・人質事件(1979年11月に発生)など外交面で揺さぶられた。また、経済では、景気が停滞する中で物価が上昇するスタグフレーションに悩まされた。米経済は選挙の年の1980年にマイナス成長に陥り、失業者は対1979年比150万人増の767万人に達した。

カーターは現職大統領であるにもかかわらず、予備選段階で党内からエドワード・ケネディ上院議員の挑戦を受けた。カーターは予備選が行われた34州中24州で勝利を収め、党大会でもケネディを押さえて候補指名を獲得した。しかし、団結を求めるケネディの演説の方が、カーターの指名受諾演説よりも迫力があったのは皮肉で、弱体化した大統領を象徴していた。

一方、共和党ではレーガン元カリフォルニア州知事が本命候補として登場。アイオワ州党員集会では、ジョージ・H・W・ブッシュ元中央情報局(CIA)長官(後の第41代大統領、1989~1993年)が勝利を収めたものの、ニューハンプシャー州予備選ではレーガンが圧勝し、その後も有利に戦いを進めた。ブッシュはペンシルベニア、ミシガン両州で勝ったが及ばず、1980年7月の党大会(デトロイト)ではレーガンが候補指名を受けた。ブッシュは副大統領候補に起用された。

カーターは本選で、レーガンの保守主義が世界の平和に脅威を及ぼすと非難し、レーガンは「戦争屋」だとレッテルを張ろうとした。さらに、レーガンが当選すれば、米国は「白人対黒人、地方対都市などに分裂させられる」と警告した。これに対して、レーガンは堂々と振る舞い、「私は怒る気にもならない。あの地位にいる人がそんな発言をするとは、悲しいだけだ。彼は国民に謝罪すべきだ」と反論した。結局、カーターの非難は空振りに終わった。

カーターとレーガンが1回だけ行ったテレビ討論(1980年10月28日、クリーブランド)では、最後にレーガンの放った言葉が決定打となった。それは「あなたの暮らしは4年前と比べて、良くなりましたか」という分かりやすい発言だった。

ニューヨーク・タイムズ紙の当時のワシントン総局長ヘドリック・スミス氏は、著書「ロナルド・レーガン タイム・イズ・ナウ いまこそ決断の時」(邦訳。英潮社)の中で、「レーガンは国民に対し、『来るべき選挙はジミー・カーターを信任するかどうかの表決である』とよびかけただけだった」と書いているが、まさにその発言が国民に1980年選挙の持つ意味を想起させ、レーガンは1980年11月4日の投票日に選挙人489人を獲得して圧勝。第40代大統領に就任した。カーターは首都ワシントンのほか、出身地のジョージア州など6州しか獲得できず、選挙人49人で完敗した。

共和党のジョン・アンダーソン下院議員が無所属で第3の候補として出馬したが、選挙人は1人も獲得できなかった。

史上最高齢の69歳でホワイトハウス入りしたレーガンの勝利は、保守派を中心にした共和党主導時代の到来を告げる歴史的な意味合いを持つ。その後、ビル・クリントン(民主、1993年~2001年)の2期を挟みながらも、ブッシュ父子による共和党政権の継承に道を開いた。
12位 ウッドロウ・ウィルソン

1913年3月~
1921年3月

<第28代>

民主党
大企業の独占化に反対して、自由競争を回復することに取り組んだ。 また、労働者の権利を守り、福祉を向上させることを目指した。 そのために、様々な経済改革を実行した。

具体的には、1914年にシャーマン反トラスト法を強化し、「クレイトン反トラスト法」を制定した。 さらに、商取引を監視する「連邦取引委員会(FTC)を設置した。 独占を廃し、中小企業が大企業とより公正に競争できるようにすることが目的だった。

税収を確保するために、初の累進性の連邦所得税を導入した。 また、1913年に「アンダーウッド関税法」を成立させた。この法律では、平均的な関税の税率を41%から27%に引き下げた。

さらに、連邦準備法を制定した。 この法律により、全国12の地区に連邦準備銀行が設置された。 アメリカ独特の中央銀行制度が創設されたのだ。

1914年に欧州で始まった第1次世界大戦では中立を維持した。 「戦争に巻き込まれなかった」というスローガンで1916年の選挙では再選された。

しかし、その直後の1917年2月にドイツが潜水艦による無制限攻撃作戦の開始を宣言すると、ドイツと断交した。 4月2日に議会で「ドイツの潜水艦戦は人道に反する戦争だ」と非難して「世界の民主主義」を守る目的で戦うと宣言した。 議会はウィルソンの要請を受けて、4月6日に圧倒的多数の支持で対独宣戦布告に踏み切った。

1918年1月、戦後を見越して平和を築く「14カ条」(the Fourteen Points)を発表した。 「外交の公開」「航海の自由」「通商の障壁撤廃」「軍縮」「(主に欧州における)民族自決」「領土保全のための国際機関創設」などを訴えた。

ドイツの敗戦後、1919年1月からパリで行われた講和会議では、国際連盟の創設が大きな議題の1つとなった。 ウィルソンは自らアメリカ代表団を率いて交渉の先頭に立った。 国際連盟は創設されたが、アメリカは議会の反対により、参加しなかった。

1919年度、ウィルソンにノーベル平和賞が授与された。「世界平和を目指した初の国際機関である国際連盟の創設に寄与した」という理由だった。
13位 ジェームズ・マディソン

1809年3月~
1817年3月

<第4代>

民主共和党
14位 ジェームズ・モンロー

1817年3月~
1825年3月

<第5代>

民主共和党
15位 ジョン・アダムズ

1797年3月~
1801年3月

<第2代>

連邦党
16位 ビル・クリントン

1993年1月~
2001年1月

<第42代>

民主党
17位 ジェームズ・ポーク

1845年3月~
1849年3月

<第11代>

民主党
18位 ウィリアム・マッキンリー

1897年3月~
1901年9月

<第25代>

共和党
19位 ジョン・クィンシー・アダムズ

1825年3月~
1829年3月

<第6代>

民主共和党
20位 ジョージ・ブッシュ(親)

1989年1月~
1993年1月

<第41代>

共和党
(集計元:STOCK SIEVE